Masuk──静まり返る部屋の中、何事もなかったかのように御神様が言い放つ。
「高科、ツィゴネルワイゼンで春コンに一人追加だ。一ヶ月でこの通りに完成させろ。出来なければ退学だ」
「え? 彼女を? いきなり? しかも最高難易度だよ?」
高科は驚いた顔で、彼女と御神の顔を交互で見る。
「春コン?」
何ですか? それ?
一ヶ月で先程の神と同じ演奏?
いや絶対無理でしょう? ド素人凡人ですよ?
「高科こいつ譜読み出来ない。持ち方から姿勢、ボーイング全ての基礎を二週間で叩き込め。楽譜通り正確に仕上げた後に、今のを再現させろ」
「は?」
「え?」
部屋の皆が静まり返った。
「毎日レッスン風景を動画で俺に送ること。あとでカリキュラムを高科に送る。それまで貸しておいてやるよ」
「え? えええ?」
──トントントン
「御神先生、お時間がもう。早く!」
少し若い気の良い感じの男性が、急ぎながら部屋に入って来た。
「待たせとけよ。あ、俺の名刺。それと明後日の席一枚」
「無理ですよ完売ですし。無茶言わないで下さいって」
男は泣きそうな顔をしながら一生懸命、小さくなって謝っている。
「あけろ。あ、財布貸して」
「へ? え?」
突然、御神様はその男性の鞄を開け、中から財布を取り出した。
「とりあえずはこれで。足りなければ由紀に請求しろ。他は高科に何でも相談するといい」
え? ええええ? 足りなければってそれ……
三十枚ぐらい? が束になった、一万円札の束を渡された。
「え? こんなに? 頂けません」
「誰がタダでやると言った? 1ヶ月でモノにならなければ全額回収する」
「ぇ?」
「先生。もう本当にお時間が、リハ始まってしまいますって!」
名刺の裏にサラサラと数字を書いて手渡された。
「連絡先だ。登録したら必ず処分しとけ。あとは高科の言う通りにしろ。高科あとは頼んだぞ? 後でメニュー送るから」
「え? は? ええええええ?」
あまりもの突然の内容に拒否することすら忘れていた黒髪長身の男は、口をポカンと開けたままだった。
「帰国するまで高科教室に入れる。レッスン室は俺の部屋使うように。別メニュー組むから枠だけ確保してくれ」
え? 俺が面倒みるの?
開いた口がふさがらないとはこのことだろう。
「あ! あの、御神様。お願いがあります!!」
「あ? まだ何かあるのか?」
眉間に皺を寄せ、明らかに不快な顔を一瞬見せた。
その顔に少しだけ躊躇したが、今しかない! と思う気持ちが強く言葉にしていた。
「も、もう一枚あの記念に、お名刺頂いても? サ、サインとか頂いても?」
「……」
「き、君! いきなり何てことを! 先生本当にもうお時間が」
やっぱり厚かましいですよね。うん。すいません。
だってもう二度と会えないかもなんだもん。
あの御神 貴志が目の前にいるんだもん。記念に欲しいんだもん。
御神様がツカツカとピアノに向かって歩いて行く。
譜面台にあった楽譜を無言で取り上げ、内ポケットから万年筆を取り出したかと思うと、楽譜に何やら記号のような物を書き込んでいる。
ボーイング? アップとダウン記号?
「あ、あの世界の御神が……ボーイングを手書きでスコアに……」
その姿に、一同が驚愕していた。
「先生。早く」
「残りは高科に教えてもらって自分で書き込め」
タイトルの横に彼が自分の名前を書き入れる。
見慣れたサインではなく「御神 貴志」と書き入れた横に見慣れたサイン「T.Mikami」と書き入れた。
え? これって世界で一枚しかない?
「有り難う御座います! 先生!」
名刺を取り出し、裏に名前を書き入れて渡された。
「しっかり練習しとけよ? 佐々木、一ヶ月後の日本のエア取っておけ」
それだけ言って神が去ろうとした瞬間、私は居てもたっても居られない気持ちで、気づいたらバイオリンを手にしていた。
低い哀愁から始り一気に駆け上がる──
「は?」
「一度聴いただけで?」
──パンッ
はっ! 私ったら神の前で!
御神様の叩いた両手の音で我に戻った私は、恥ずかしくて穴があったら入りたい気持ちだった。
「とりあえず、今は一から基礎を身体に叩き込め。正しい奏法をちゃんと身につけてからだ。いいな?」
神が優しい目で私に諭すように言う。その甘い声に私は目眩がしそうになり、無言で頷くだけが精一杯だった。
「……」
「先生、早く!!」
「煩いなぁ。ったく行けば良いんだろうよ行けば。じゃあな。ちゃんと毎日送れよ?」
神が優しく微笑まれ、去って行った。
それは、眩しいぐらいの柔らかな笑顔だった。
◇
「桜井さん? 取り敢えず入学手続きをしましょうか、高科先生もご一緒して頂いても? あと、これね。貴志のプレゼント」
由紀お姉様が、愚民に微笑まれる。
う、美しすぎる……
確か、もう40歳近いはずよねぇ? 御神様とかなり歳が離れていたはず。
そのお歳でこれは……
やはり妖精さんは歳をとらないのかしら。
御神 由紀──その容姿から現役時代は男女ともにファンが多く「天使」や「妖精」と言われていたが、その音色は艶があり、華奢な身体からは想像が出来ないぐらいダイナミックな演奏家として世界に知られていた。
現在は自らの公演を開くことは殆どなく、後世を育てることに心血を注いでいた。
彼女から受け取った先程の録音CDを手にしながら、私は口元が自然に緩み、ずっと笑っていた。
「ちょっと? さ、桜井さん? 大丈夫?」
閉めようと思っても、嬉し過ぎて緩み開いてしまう口元に、微妙な空気が漂っていたことは、言う間でもなかった。
◆◆おまけ◆◆ ボーイング(運弓)記号:アップ=弓先側から上げ弓Vの字を音符の上に書いていきます。ダウン=下げ弓 箱型記号手元側から 一般的にはクレッシェンド(段々強く)する場合アップ記号、その逆がダウンとなります。 ただし、演奏者の解釈次第で全く違う風になることもあります。
──追試になんとかギリギリ合格出来たことで、完全に気が抜けてしまってたわ…… 次は高科先生の授業だ~~楽しみ!「失礼します~~桜井入ります」「天野先生もいるう! って? どうされたんですか? 何かお疲れのようで?」 天野先生にも会えたことは嬉しかったのだが、何だか凄く疲れた様子で、何かあったんだろうか? 心配になり近寄った。「君の鬼に言って下さい。御神先生、頭おかしいわ。やっぱり」「ぇ?」「朝っぱらからハノン1時間のあとソナチネだよ? なんで今更基礎教本を」 天野先生もだったんですね。 うん。私は悪くない。関係ない。 そして私を睨まないでください……「天野先生も一緒に練習見てくれるんですか?」 久々に二人に練習見て貰えるなんて!「違います! 一緒に練習するんです! これから!」「ぇ?」 ──ガチャッ「ごめんごめん遅くなって前のが伸びて」「よろしくお願いします。高科先生」「何言ってるの? 一緒にこれから練習だけど?」「え? あの、つかのことを伺いますが私の実技の授業では?」「黙れ」「黙らっしゃい!」「……あの、それで」「あ?」「何?」 こ、怖い。私悪くないですよねえ?「これで私、追試になるとかはないですよねえ?」「アンタの実技教科担当は悪魔先生です!」 アンタって……天野先生。 しかも悪魔先生って酷すぎる……「で、どっちからやれって?」「ホルストでお願いします」「ジュピター?」「はい」「じゃぁ始めるよ」「はい、あ! 待って! 録音させて下さい!」「さ、桜井? もしかして?」「先生が送って来いって」「……最悪」「ピアノ無しの送って下さい」「いつでもどうぞ」 桜井? こいつ腕あげた? こんなにパッセージ的確に揃えれたか? おいおい高科先生。桜井に音持って行かれてるじゃん。基礎サボってたな。 高科先生とこうしてバイオリンを一緒に弾ける日が来るだなんて。思っても見なかった! 楽しいぃいいいいい! 何これ、こんなに楽しいなんて。 ここは確かもっと豊かに先生が奏でていたような。 そして次は、そうそう高音部を伸び伸びと。 静かな眠りから壮大な宇宙へ。「ありがとうございました!」 楽しかったぁああ。もっとやりたい!! あれ? 高科先生? 無言で高科先生が部屋を出て行った。 今日は
東の空が紺紫から段々と薄紅色に染まっていき、辺り一帯の空気がツンと頬を突き刺すような寒さの中、鳥たちの動きも何だか遅く感じた。 季節の流れは早いもので、一年で一番忙しいとされる師走を迎えていた。 そんな中、一際賑やかな集団が一つあった。 朝のランニングに行こうと思って寮を出たら、門の外が騒がしかったのでよく見てみたら、見慣れた顔がチラホラと。「何ですか? 高科先生まで。それに白井さんや、皆さんまで?」「君の鬼に聞いてくれよ。さっさと行くよ。俺この後、授業あるんだから」 高科先生が私を睨む。そして幾分皆さんも、何となく私に言いたげな雰囲気である。「ぇ? 何かしました?」 昨夜、奴から届いたメール内容。『オケメン全員、花音と同じメニューこなすこと。天野以外教師含む。1年通せる自信ある奴のみ免除。日本公演分全曲を、全員3月中に入れること。帰国日決まったら連絡する』『追伸─花音に食われるなよ』「あの野郎…⋯」「ぇ??」 「もしかして、皆さん同じメニューをこれから毎日?」「これ朝、何分?」 高科先生が私の顔を睨みながら言う。 いや、私のせいじゃないですからね? 先生の指示ですよねえ? 私、悪くないですからね?「45分か5キロです」「……あのクソが」 高科せんせ?「行くぞ」 ◇「ぜぇ。はぁ。ぜぇ」「ゲホェッ。ゴホッ」「ハァハァハァッ、ハァ」「あ、あし、足ツタ、つったあ」 えっと……皆さん大丈夫ですか?「高科先生? お水持って来ます?」「お、お前平気なのか?」「あ、帰ってきて直ぐは流石に三日ぐらいはしんどかったですよ? あ、夕方は何時集合にします? 夕方軽いですよ? 30分か4キロでいいから」「………」「あ! 早く行かないと朝ご飯の時間! いっぱいになっちゃう! 8時にパッセージ1時間一緒にしましょうね? では皆さんお先に~~」 45分全力で走った直ぐ後、元気に走り去って行った少女の背が、既に小さくなっている姿に高科は驚愕した。「……悪魔の子は悪魔に育つのか?」 膝がプルプルし、未だ息が上がっている自分の姿に、学園一厳しく、そしてイケメンと言われた男は、敗北感が否めなかった。 ◇『誰にも見せるなよ。ホルストのレッスン送ってこい毎日。指示出すから。ものまねじゃなく、お前の音を待っている』 昨夜届いた宝物を
──目移りしそうなぐらい、お洒落な服が視界を占領していた。まるで私は、何処かのお姫様になったような気分になる。 そんな私に先生は笑いながらも、ほんの少しだけ時折呆れた顔を見せる。「どっちが良いですか?」「欲しいなら両方買えばいいだろ」「えぇえ〜〜勿体ないですし」「良いよ身体で払ってくれたら」「ぇ?」「阿呆そっちじゃない。ちゃんと4月までに間に合わせろよ?」「……ですよね」「あ、板に乗せられない状態と判断した場合は即刻切るから、覚えておくように」「ぇ?」 え?? 聞いていませんが? オーデション受かってもクビになるってことですか?「こっちも慈善事業じゃないんで」「う、嘘ですよねぇ?」「俺、今まで嘘ついたことないが?」「ぇ? まさかとは思いますが、もし駄目だったら先生ともお別れ?」「そういうことになるな。ハハハッ頑張りたまえ」 うそおおおぉおお! そんなあああ!! やっぱり悪魔だ…… 音楽に関して先生は一切絶対妥協しない。 一見、冗談で言っているように見えるが、先生が「音楽」で情けを掛けることは絶対にないことは分かっていた。 ◇ み、御、神 た、貴志に荷物持ちをさせている私って…… 結局あれから他にも何着か買って頂き、その荷物を全て持ってくれる神。「せ、せんせい。これ見たい……」 沢山の化粧品が並んでいる店が飛び込んで来て、思わず言葉にしていた。「如何ですか? 良ければ試してみられますか?」 ぇ? 先生の顔を見る。 何も言わないけれど、その顔は肯定と取って良いと。 最近は何となくわかるようになった。 先生は「駄目」な時だけは言葉でちゃんと「駄目」と拒否するが、それ以外は本意ではなくても結局は許してくれる。 はじめて見る大人の世界に入り込んだような感覚。 キラキラ輝く鏡の中に映る自分の姿が、魔法の粉が降り注ぐことによって、全く違う私が出来上がる。「如何ですか?」 魔法を掛けてくれたお姉さんがにっこり微笑む。「あ、有り難う御座います……」 パウダールームを後にして、サロンで待っていた先生のもとにゆっくり歩み寄る。「先生? どうですか?」 頭の先からゆっくり視線が下りて行く。「如何ですか? 少し大人な感じに仕上げてみました」 店員さんが先生に微笑むのを見て、私は少しだけ恥ずかしくなる。
──これ制服で行かないほうがいいわよねえ? 寮に急いで戻った私は、数少ない外出着の中から一番マシなのを手に取り、着替える。 うん。冬服買おう。 ヤバッ! 時間! 急いで靴に履き替え、指定場所に向かう。 こんな昼間に、しかも今日は平日。 皆はまだ授業を受けているのに。 オーデションを受ける人は、今日は公休日となっていた。 午後からオリエンテーションがある予定が…… 先生の説明が3分で終わってしまったからだ。 高科先生がちょっと気の毒にも…… 先生、早っ!「お邪魔します?」「おめでとう」 助手席に座った途端。 え? ちょ、せ、せん、せい。 それは、いきなりの出来事だった。 こ、こんなところで…… もし誰かに見られたら。 ん─ 塞がれた唇に割って入るように奥まで先生が激しくなる。 頭の中が真っ白になりかけた時、優しく耳元で囁いた。「もう逃げるなよ」「……はい」 いきなりに驚いた私は俯きながら小さな声で答えた。 何も無かったような顔をして、顔色一つ変えずにサングラスを手にし、綺麗な長い指で髪を掻上げながら瞳を覆い掛ける姿は、ズルいぐらい格好良く見えた。「好き?」「……それ今更いるか?」「言って欲しいもん」「今度ベッドの中でな?」「ぇ?」「籍入れるまで待てってか?」「⋯⋯」「待ってやるよ、なら」「ぇ?」 それって⋯⋯ 今、籍いれるって言った? え? え? 本当に? え? その後のって…… 驚き過ぎて、良く聞き取れなかったけれど…… それって……「まあ、取り敢えずは卒業しなさい。今は襲わないって誓います。だから安心しろ」「襲うって……」「だから、しないって」「いや、そうじゃなくてですねぇ……」「何だよ? ちゃんと待つって言ったろ」「いや、そうじゃなくて。待たなくても良いといいますか……何と申し上げたら良いのでしょうか……」「ハハハハッ。阿呆かお前。自分から安売りする女が何処にいるんだよ。卒業するまでは抱きません」「……ごめんなさい。じゃあ卒業したら良いんですか?」 先生の顔を見る。 笑っていた先生の顔が少しだけ真面目な顔に変わる。「そこは重視してないから。焦る必要ないよ。まぁ俺が我慢出来なくなれば、分からんけどな?」 先生が? 我慢出来なくなることなんてあるの?「
ほんの少し前まで野山の木々が燃えるように赤く染まっていたのに、段々とそれも燻みはじめ、朝靄の山頂には雲海の絨毯に、日輪の光が金色の帯となり神々しく荘厳な時を迎えていた。「神が帰って来る!!」 まさに神降臨に相応しい光景だった。 あれから三日。やれることはやった。 今日で私の運命が決まる。 もし落ちたら…… 永遠の別れに? いやぁあああぁああぁ゙あ゙ああ! そんなの絶対いやあああああ! 悔いのない演奏をしてそれでも駄目なら仕方がない。 私は金のピアスをする。 一度は捨てようとした、大事なお守り。 もう二度とそんなことはしない。 校内では付けないようにしていたが、どうしても今日はこのお守りに願いたかったからだ。 思えばここまで色々あった。 なんの取り柄もない私が、今やこうして世界の御神 貴志の前で、そして彼のバイオリンで彼の十八番を披露する。 それだけでも、以前の私の生活からは考えられないことだった。 ましてや先生と一緒にオケに参加出来るかもしれない千載一遇の機会。 迷ったり、逃げたり、悩んだりとかとんでもないわ! 元々何も無かったんだもの。 失うものなんて。 沢山貰ったから怖くなっただけ。その幸せを手放すのが。 先生が言った「最高だった」あの言葉を信じよう。 私のカプリースで挑む。 ◇ 試験会場へ向かう。 思ったより多いわねぇ。アカデミーの研究生ばかりかと思ったら。同じバイオリン科の子の姿をチラホラ見かけた。 受付に行き番号札を貰う。「52番」 50人以上受けるってことかしら? 先生中にいるのかなあ? うはっ、G線10人一度に弾くの? ゾロゾロと会場に入って行く列をぼんやり眺めていると、恭子さんと目があった。「こんにちは」「ビオラも同じ時間なんですねえ?」「そうみたいねぇ? 何番?」「52です」「と言うことは52人受けるってことかしらね?」 あ、最後か私…… なんか寂しい。「次のグループ30~40番まで」 家路も10人か……「じゃぁお先に。お互い頑張りましょうね」「あ、はい」 今頃になって緊張してきた…… ヤバイ…… 力が入り強張る手を握りながら、出来るだけ無の世界へ集中する。 先生……「52番中へ」「52番さん? いないの?」「52番の人中へ」 ハッ!「す、すい
久しぶりに帰って来た自分の部屋を見渡す。 何も変わっていない。 でも一つだけ以前と明らかに変わったことがある。 今も残る先生の吐息と、仄かに香るタバコの匂いとムスクの薫りが入り混じった大人の香り。 頬が熱くなるのを感じ、洗面所に向かう。 う、嘘…… 首筋に残る先生が残した印。 恥ずかしさより嬉しさが勝っていた。 テーブルに置いた封筒を眺める。 勉強しなきゃ……「む、無理だ……わかんなあああい! 数学無理! 英語むりいい!!」 最悪だ…… ◇「嘘……あのまま寝てしまった。最悪!」 自分の馬鹿さ加減に呆れてしまう。 久しぶりにジャージに急いで着替えた。 今まで何ヶ月もサボっていたカリキュラムをまた一から頑張らないと……「ぜぇ。はぁ、ぜぇハァ。し、死ねる……よく私これやってたわね……」 膝がプルプル震える感覚。 懐かしいようなこの感覚に、自然と私は笑っていた。 もう逃げない。 絶対に。 ◇「お、おはよぅござぃますぅ?」 職員室に向かい、高科先生か天野先生を探す。「高科先生ならご自分の部屋にいらしたわよ?」「有難う御座います!」 確か、声楽科の先生よねえ? 何で私のことが分かったんだろう? まぁいっか。「おはよぅございます?」 ──ガラガラ「おかえり」 高科先生!「ごめんなさい! 先生!」 思わず走って先生に飛びつこうとした瞬間、声がした。「ごめんなさいじゃないわ! どれだけ心配したと思ってるんだよ!」「天野……無事帰って来たんだから、もう良いじゃないか。ちゃんと反省してるんだろ? 桜井も?」「いえ、天野先生の言う通りです。本当にすいませんでした」 二人に私は深々と頭を下げた。 こんなにも私のことを心配してくれた人がいたと言うのに…… 本当に自分は酷いことをしたんだと、改めて実感した。「あの……本当に厚かましい話しなんですが……天野先生って数学得意だったりします?」「は?」「……やっぱり無理ですよねぇ」 やっぱり音楽の先生だしなぁ。「誰が無理って言った?」「え?」「桜井知らなかったのか? 天野は元々国立医学部だよ」「ぇえええええええええ?」「お前驚き過ぎだろう……」「何でそんな御方が音楽に? ジュリアノですよねえ?」「ずっと本当は音大に行きたかったのに、親の言うことを聞
朝ご飯を食べ終え学校に行く用意をしていたら、テレビから流れるニュースの音に立ち止まる。『Takashi Mikami──世界を圧巻したあの御神の凱旋帰国決定!』「御神さん、一言お願いします!」「久しぶりの緊急帰国になりますが、暫く日本で活動されるのですか?」「今回、御神堂での凱旋公演とのことですが、お父様の御神 幸造氏はいらっしゃる予定ですか?」 空港ロビーに集まる報道陣のフラッシュの中、明るめの茶色い長髪が光りを浴び金色に輝く中、サングラスを外すことなく無言で人混みを掻き分けるように足早に去っていたが、記者の最後の質問に、サングラス越しにも分かるぐらい一瞬怪訝な顔を浮かべた。
──イギリス人作曲家エドワード・エルガーの「威風堂々」その中の『希望と栄光の国』は「イギリスの第二の国家」と言われる程、本国イギリスでは長年愛され続け、歌詞も付けられている。 イギリス国内以外でも一度は耳にしたことがある有名フレーズだ。 そんな世界に愛される曲が「天才 御神の手」によってどんな風に味付けされるか、皆が固唾を飲んで瞬間を心待ちにしていた。 ◇ 先生が出てきた瞬間、ホールの空気が一瞬にして変わる。 全観客が「御神音楽」の世界に引きずり込まれ、行進のファンファーレと共に私達を連れて行った。 ──圧巻 その二文字しか出てこなかった。「ブラボー」「ブラボー!」「パチパ
──呆れた高科先生が、学長に電話しはじめた。「高科です。学長すいません。今日の貴志のコンサートのことなんですが、桜井がですねぇ~~~。分かりました。伝えておきます。有り難う御座います」「授業終わったら学長室に寄れってさ。良かったね?」「何から何までお世話お掛けして、すいません」「あ、良いってことよ。身体で返してもらうから」「ぇ?」 え? どう言う意味ですか? 先生!?「ああ、違う違う。プロになって有名になってくれたらMアカデミーの生徒増えるしね。あと、タダで公演に呼べるし。こっちもメリットあるから」「ぇ?」「当然でしょう? いくら金掛けると思うんだ君に。その一握りを手に
──桜並木を潜り抜け、緩やかな坂を登ると見えてくる緑に囲まれた庭園の奥から覗く白い洋館。今日もそこから漏れ聴こえてくる心地良い音の調べ。「おはようございます! 御神先生!」「御神音楽学校 Mアカデミー学園」の看板の前で、頬ずりをし深く頭を下げた。 ここの門を潜ったのは今日で二回目。 たまたま朝のニュースで御神様の帰国を知り、後ろ髪を引かれる思いで通学の為に乗った電車でたまたま見つけた広告。 あの日以来、私の人生は全く違う色になった。 学長の由紀先生や、高科先生の反対を押し切り私は通っていた高校を退学した。 これで逃げる場所は無くなった。 憧れるだけの存在だった神に、奏







